いわき通信 号外
子供たちが思う「震災」とその後


 文化情報12期生の吉田さんが勤務する(株)イオンでは、社会貢献活動のひとつとして「イオンチアーズクラブ」を運営しています。店舗近隣の子供たちが集まり、様々な活動を通じて環境や社会への関わりを学習しています。「いわき通信」に登場する「壁新聞の子供たち」はこのチアーズのメンバーです。
 吉田さんが担当する「イオンいわきチアーズクラブ」のメンバーは先月(2014年3月)、その活動の一環として三重県の小学生と意見交換の体験学習に参加しました。

 以下はその際の発表用の作文です。ぜひご一読ください。今のいわきの子供たち思いがここにあります。(原則的に原文のまま掲載いたしますが、資料の複写が途切れているところなどは編集者が補完しております。ご了承下さい。)

<イオンいわき・チアーズクラブ>

 〜震災から〜
郷ヶ丘小学校(5年) 金成 美咲
 わたしは兄弟が3人います。地震がおきたとき、お兄ちゃんは学校に、わたしは下校中、妹はお母さんといました。お兄ちゃんは学校で先生にゆうどうされて、わたしは地いきの人に助けてもらい、だれひとりけがしませんでした。地しんがおきているとき、近くの家のかわらが落ち、地面がうねっていました。わたしはこんなたいけんはじめてだったので、言葉をはっすることができませんでした。地しんが止まって周囲を見ればいつも見ていた風景とはぜんぜん違いました。そのあとお母さんがかけつけてくれてぶじに家に帰れました。
 家の中に入ると外と同じく、見ていた風景はかわり、ちらかっていて、ガラスのはへんが落ちたり、ピアノが動いていたりしました。お父さんは実家に手伝いに行き、妹とわたしはとなりの人に家へいて、お母さん一人できけんなところをかたずづけました。その後お兄ちゃんが帰ってきてみんなで家をかたづけました。そのときお兄ちゃんと帰ってきた子は、歩いて家に帰れなかったのでお母さんが送っていき、やっとかたづけもおわり一だんらくしたころに、地しんのおそろしさが分かりました。その次の日は何をすればいいか分かりませんでした。
 水は学校であまっていたのでそこでもらい、食料は近くのコンビニで、たくさんとっておいたのにそれでもたりませんでした。お昼をぬいたり、知り合いからもらったりして4月すぎまで家ですごしました。その間はとてもつまらなかったです。やっと学校へ行ける日がくると、今まで会えなかった友だちと会えたのですが、いわき市からはなれた子が半分以上いました。給食もしばらくはなしで、お昼前に帰りました。学校で食べられるようになっても簡たんなものでおなかがすきました。
 学校でも問題はありましたが、家でも問題がありました。お父さんが働いていたところが原し力発電所の近くだったので、働くことができませんでした。テレビで見たのですが、つ波のひ害にあったところです。わたしたちがくらしているところよりもはるかにひどくやられてしまいました。家や大切な人を流された人もいるのを知って、わたしたちよりひどい目にあっている人もいるのだとはじめて知りました。他のところの人はかわいそうだね、と同情してくれましたが、ならなぜわたしたちの地いきにほうしゃのうがあり、やられているときめつけ、電気や水をまわすのをおそくしたの、といかりを覚えることもありました。でも今考えれば、わたしたちだって自分のことしか考えずに食料や水をもらっていたのに、他の人のことはせめられないと思います。災害があったらほとんどの人は自分のことしか考えられません。わたしたちのところにも電気を、水を、ガスをまわしてくれというのも相手のことを考えずに言っているので、自分かってと同じです。わたしはこう考えたときは2年生でした。なんの前ぶれもなくきたじしんはひげきとしか言いようがありません。そこでとっさに何ができるか、どんなことをすべきかが大切なんです。いつ何の災害がきてもいいように準備したいと思います。
 わたしは自然をあまく見ていました。人間の手でかんたんにこわれてしまうような弱いものだと思っていたのですが、今回の地しんがそれをくつがえしました。今私たちのじもとはたくさんの人の力でなんとかこうしてきています。この平和な日本でおきた地しんがたくさんの物をうばいとり人々を苦しめました。ですがどれにより人が人との輪でつながり、深まっているのです。今回わたしが学んだのは、災害のこわさ、災害にたいするそなえの大切さ、そして人と人との輪の素晴らしさです。このことをわすれないようにしたいと思いました。


〜震災から今の私の思い出 笑顔を大切に!!〜
平第四小学校(5年) 田 智江
 震災がきた日は私はまだ2年生でした。地震の時は、家で宿題をやっていて、お母さんとお父さんと家で楽しくすごしていたとき、お兄ちゃんもいたけれど、お姉ちゃんは学校から友達3人と帰って(く)るときで、大きな地震があり、お姉ちゃんは家にしっかりと帰ってきたけど、私は体がブルブルふるえて、ずっとお母さんのひざの上でだかれながらいました。地震は小さくてすぐおわるのかと思って安心していたら、どんどん大きくなり、つくえの下にずっとかくれていて、とてもこわい思いをしました。おじいちゃん、おばあちゃんも元気でだいじょうぶでした。なみだがずっとこぼれて、とまらなくて、こわくて、とまらなくてもお母さんがだいてくれてうれしかったです。
 その時は水やガスなど、電気もつかなかったり、こまりました。家族でがんばって勇気がもどってきてうれしかったけど、今でもそのきおくは消えません。
 友達がこなくててん校した人もいたけど、4年生の時にもどってきた人や、こっちも大変でこまっていたけれど、震災でひがいに合った人もいっぱいきて、友達との関係もうしなわれなかったのでよかったと思います。
 地震でしんせきなど家族、友達は大じょうぶでしたけど、死んでしまった人や、まだゆくえがわからない人までいっぱいいたので、私はかなしく思いました。
 その時私は世界を守る医者になるけついをしました。人を死なせたくないという思いが心でいっぱいになりました。どんな人でも命を助けたりするのをして、みんなを長生きしたり、元気に楽しく過ごせるようにしてあげたいという思いがあり、今はがんばりたいとずっと思っています。命をすくう人になれるようにがんばっています。人の未来を見せられるような医者になりたいと思います。
 東日本では、すごくこわい思い(出)で、まだかなしくてこわい思いでいる人がまだまだいます。その時は食料がなくて、夜はねれなくてベッドで明かりをつけてダブルベッドでお母さんと話をしたり、ねむれなく、次の日は家族でくっついて話したり、少し遊んだりしてとても楽しくなってきて、楽しいきおくがかえってきたけれど、まだまだこわい思い出は残っていて、ニュースで「3年がたった」というのでお母さんと私は、「見ているとかなしくてこわい思い出が思い出されるから、ちがうのを見ようね」とお母さんが言って、私はそうだなと思い、ちがう楽しいビデオにとっておいたのを見て、思いだされることはなかったけれど、まだ残っているのはいっぱいあったけれどだいじょうぶでした。 今は家族幸せですごしています。でも3年前はすいそばくはつやいろいろな事件があり、こまって(い)ました。今でもしんさいのことで事こや事件はまだおきているところがあり、ほうしゃのうで今も、私は食べ物などにこまっていて、学校の給食でも牛乳がビンから箱にかわり、今でも牛乳を飲まない人が学校にいっぱいいます。
 友達と今は安心して遊んだりしています。つ波がひどかったころは、災害がひどくきていました。でも2014年の今は楽しい日々が続いていて、家族や友達、近所の人との生活は楽しくやっていてとても楽しい思い出が次に次にと、書き足されてきています。いわき市は心のふっこうと町のふっこうを大切にして行きたいと思いました。みんなの笑顔・スマイルが見れてきて、とてもこわい思いで、かこをふりかえるとこわいかなしい思い出が次々に思い出されている日も何日もあったけど、(もう)5年生で4月には6年生になり、毎日を大切にすごして、前を向きながら生活しています。
 地震が減ってきているけれど、また大きい地震がおこりうるのかもしれません。でも家族などみんながいて安心なので大丈夫だと信じています。私の世界を守る医者になるのをわすれずに人とせっして幸せや感動を感じながら、こまっている人をたすけたり、家族や友達みんなで日々の成長をしていきたいです。一日一日を大切にしていきたいと思います。


小玉小学校(5年) 大平 健太郎
 ぼくは地震が起きたとき小学2年生でした。そして学校の校庭にいました。お母さんは家に、お父さんは会社にいました。とても大きなゆれでとてもこわかったです。
 そのあと友達といっしょに気をつけて帰りました。家に帰ったあとも余震が続きました。夜、お父さんも帰ってきて、家族がみんなそろいました。まただれもけがをせず、家もこわれませんでした。ぼくの家では電気もつき、いど水もあったので、おふろやトイレには入れました。けれど家の中にある物はたおれて、今まで見ていた風景とはちがっていました。一ヶ月で3年生になり、学校には行けるようになったけれど、給食センターがこわれてしまったので、しばらくの間、お弁当を持っていきました。
 しかし、地震が起きた何日かご、原発事故が起きたのでお父さんとひなんしました。ひなんした先でも余震は起き、こわかったです。何日かひなんしたあと帰ってきて、もともとの春休みの期間が終わるまで学校は休みでした。
 学校の体育の授業は放しゃ線のえいきょうで外で行うことができず、登下校時もマスク着用しなければいけませんでした。また大きゅうけいの時間も外で遊ぶことができませんでした。地震の起きる何日か前に学校で「きしん車」で強い地震のゆれを体験していました。でも本当に起きるとは思わなかったのでびっくりしました。学校の行事の運動会やプール学習もありませんでした。
 原子力発電は安全だといっていたので、ばく発したのはびっくりしました。
 ガソリンもなくなっていたので、ガソリンスタンドにならびました。
 放しゃ線で運動会などをできなくした原発もこわいけれど、海岸ぞいの人たちをぎせいにした大津波もこわいです。
 放しゃ線のえいきょうで、しゅうかくさいも4年生のときまでなかったけれど、5年生になった今年、やっとできるようになったことがとてもうれしかったです。
 地震がきてもすぐにげられるようにしています。大きな地震がきてもこれを教訓にしてにげたりしたいです。
 大人になってもこの地震のことをわすれずにいたいと思います。また、大人になってもぜったいいわき市にもどってきたいと思います。
 子供ができたとしてもこのことを語りつづけていってもらいたいです。いわき市のことを大切に思い、生活していこうと思っています。このような災害が起きたら僕は手伝ったりすることができるかはわかりませんが、近くの人と協力していきたいと思います。
 このことはぜったいにわすれないようにしたいと思います。

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